昭和42年06月30日 夜の御理解



 今日合楽教会と言うよりも私と、私が始めて大祓式を奉仕さして頂いて、ほんとにあの、急な事でございましたので、案内なんかが不行き届きで、いつも月次祭にお参りをしておる人達ですらが知っていなかったというような状態で、たいへん相済まん事でございましたけれども、それでもやはり、まあ神様はお引き寄せを下さらなければならない人は、やっぱりお参りをして来てる。
 例えば、江口にあの、北野の江口の東さん達兄弟は、それはもういつも月次祭の日には参って来る人達なんですけれども、どうした事でしたか、あちらの方には案内が行ってなかった。全然知らなかった。けれども、今日は何か知らんがしきりにあの姉さんに誘い、誘ってお参りしたかった。とこう言うんです。あっぱり今日はこんな大祓式があっておったということをここで聞いて、改めてその自動車やら、他の家族の者やらのお届けをしてお願いをしたと言ったような状態であった。
 それでもやはり、今日お届けがあっておるだけが、丁度八百三名、車の数が百九十何台でした?百九十三、百九十三台。それから、はらえつものが二百二十五枚に、だから、二百二十五家族出とるわけなんです。それでもやっぱりその位出てる訳です、ね、それだけの人達が今日の大祓式にあったわけなんです。そしてあの今日のお祭り後の御理解を頂かしてもろうて、更に私は思うんですね。
 ほんとに惜しい。今日のお祭りは誰にでも合わしたかったなということ。例えて今日の申しますなら、まあかいつまんで今日の御理解を申しますと、今日の御理解のまあ内容を申しますとね。今日の大祓式いわゆる受けた人、または受けた車の、そのまあいうならばおかげを頂く、かせて下さるということをこう私は確信するということを、私がこの大祓式についてのお願いをさして頂いておったら、神様に頂きましたこの歌を基にして皆さんに聞いてもらったんですね。
 「たまち(霊幸)はう、神のみのり(御徳)に清められ、今は穢れの雲霧もなし」霊幸はう、神の御徳に清められ、今は穢れの雲も、雲霧もなしと言う私はこれを確信する。ね。神様のお徳によって、ささやかながら私の信心の、まあお取次によってです。神様はこういう、いうならばおかげを下さっておるということを確信する。ね。これは信心ができろうができまいが頂くんだ。
 是はもう絶対のものなんだ。と例えば言葉で聞いただけでもですね、信心しておってもです「いやあ、このお祭りでなからなければならなかった」とこう、私は思うだろうと思うんです。今まで椛目時代から、大祓なんかしてない、仕えてなかったもんですからその、案内受けておっても、まあ月次祭たんべんに参りよるけん。毎日お日参りしよるから。といった人達もあったかもしれません。
 お日参り組ですら今日のお祭りにおってなかった人がおるんですから。ですから、ほんとにあの、軽々しく今日の御縁に受け、を受けた方達がだから、ほんとに神様が言うて下さるように、こうして神様がいうならば約束して下さる、そういうおかげをです、私どもが受け抜かなければならない。というような、まあ全般にその事の御理解で、その後は、いわゆる信心を、私の信心を聞いて頂いたんです。
 私どもが、例えば悪疫予防のおかげ祈願のお祭りに合わせてもろうておかげで、ね、悪い病気をしなかった。おかげで家の車は無事故で今年は済んだと言うてもです。ただそれだけで人間の幸せというものがあるものではないのだ。そこから信心が要るのだと。それにはどうでも、私どもが、天地の親神様と私どもとの間に交流するもの。なるほど親神様だな。親様だなとこう心の中に合点の行くようなもの。
 それをあの、村上さんが頂いておられたあの、事によって例を頂きましたんですね。話を聞きゃすぐ分かる。なるほど天地の親神様と言うわけも分かる。ね。私どもが確かに、ね、例えばこれを一つこうやって持っておるけれども、これは持っておるんじゃない、神様のおかげを頂かなければ持たない、持たれないんだということ。の訳合いを聞きましたとです。ほんとに許されてこれを持ってるんだと。
 こんな軽い物一つでもね、中風なら中風いう病気でもすりゃもうこれが持てんのだもん。ね。そこでそういう訳合いを聞けばなるほど親だ子だ。親神様だ、に対するところの私どもは、まあ大天地に対する小天地だと。神に対する氏子であると言う訳合いそこから分かるんだけれども、実感として親との交流というものが頂けないところにです。詫びても許されないものがあるんだ、ということを色々な例で頂いてました。
 夫婦親子、ケンカするけれども、お互いがほんとに憎み合ってケンカする者はおらん。で向上したいと思うて、ちっとでも子供が良いよいうにと思うてその、いわば親子ゲンカもありゃ夫婦ゲンカもあるんだけれど、それは親子と言う血に繋がっておる。夫婦と言うからだに繋がっておるものがあるから、ね、それが例えば、ケンカをしてもそう何日も続かないんだということ。
 そこに赤の他人が入ると難しゅうなってくるというような例をもって、神様と私どもとの、この間柄というものがほんとに親神様だな、とこう実感して分かられる為に稽古が必要だ。と言う御理解でしたです。ね。どういう稽古が必要か。例えばこれは、丁度村上さんが頂いておられますその、端唄の稽、三味線の稽古、端唄の稽古から長唄の稽古に移るぞと。さあ長唄は一番に「夏の緑」ぞと。
 次には「宝の船」ぞというふうに頂かれました。ですから、私どもの場合は、そこんところをもう一つ、その端唄を習う前に、その三味線その物の調子を覚えなければならんのだけれども、その調子と言うのが、さあ、これは二上がりですよと。これが三下がりですよと言うて分かるものではない。どんなに天才でも。やはり稽古をしておる内に、調子と言うものが自分の耳に入って来て、これが二上がりだ。これが三下がりだというふうに、これは本調子だということが分かって来るのです。
 その調子が分かるところまで信心を努めにゃいかん、修行せにゃいかんと言う御理解でしたですね。神様と私どもとの間に「なるほど親神様だな」と実感できる、ね、その実感、いわゆるそういう調子が分かるということがです。ね。おかげを頂く基であるということから、そんならばどうしたらそういう調子が分かるようになるか、というようなことでございましたですね。
 今日福岡から富永さんと言うもう五十歳余りの方、それに秋永先生所の徹さんが伴走して、伴走的にまあ、福岡から合楽まで歩いてお参りをしようと言うので、夕べの11時頃から歩き出した。もちろん2人とも自動車は持っとります。ね。ところがもう、その富永さんやっぱりもう五十からにでもなられますもんですから、始めの元気が段々無くなっていって、もう甘木辺りに来る時もう足が上がらんようになった。
 これはもう徹君、これはもうバスに乗らないかんばい。もう体が動かんごとなってる。もう神様に椛目までと言うてお願いしとったけれど、もうここんにきでお許しを頂いてこっから乗せてもらおうと言うて、もうそれこそやっとの思いでお参りをして来た。そしてここでお届けをする事が、それこそ涙ながらにですね。「おかげを頂きまして有り難うございました。もうほんとに先生、自動車の有り難さが分かりました」とこう言うのである。それなんだと私は。
 自動車は有り難いもんだ便利なもんだということは理屈でならすぐ分かるけれども、心の底から分かると言うのはやはり、そうした修行でもさしてもらわなければ分からないのだ。だからその修行は様々にあろう。日々お参りをさして頂いて、その修行のあの手、まあいうならば「此の方の信心は火や水の行ではない、家業の行」と仰るから、家業の中に日々信心の稽古をさして頂いて行く内に調子が分かってくる。
 天地の親神様と私どもとの関係と言うものがいよいよ濃ゆい深いものになって来る。交流しだす。通いだすのである。そこから尽きぬおかげが頂けれるようになってくるんだと言う、ね、例えば、自動車だけがいわゆる交通だけが、交通安全の御悲願ではなく、ただ悪疫予防だけの信心ではなく、もう一切の上におかげの頂いて行けれる、いや、どういうような場合でもおかげと思えれる、いわゆる思い込めれる信心。
 どのような場合でも有り難い、此の方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせん、ということは、此の方の道はおかげで開けた道だから、おかげでは苦労はさせん、ということにも繋がるんだということをまあ様々な例で今日は頂いた。ある人のおかげに対する視線、そのおかげの解釈から今日の御理解を頂いた。そして一番尊いおかげと言うのは、あれもおかげこれもおかげと分かるようになるまでが一人前の信心であり、そこに信心をさして頂く者の幸せがあるんだというような事でしたですね。
 今日、大祓にお参りされた方は、それをもっともっと詳しゅう頂かれたわけなのです。けれども私その、自分自身御理解を説いた後にです。もう、今日の御理解はもう一遍これをお話もしておきたいな。または、私自身ももう一遍玩味しておきたいな、というような感じがした。ね。そして、結論にこういうことでした。この大祓式と言うのはです。椛目で、いや合楽でこうして御神縁を頂いておかげを頂いておる者は、まあそれこそもちろんの事だけれども、そういう人達が信心が無かってもあってもです。
 はらえつものを出させてもろうた。お参りをさして頂いた。自動車を払うて頂いたという事だけで、これだけのおかげを受けられるのであるならば、これは自分の知っておる限り縁の、縁の繋がっておる限りにです。はらえつものを配らせて頂いて、この次の大祓にはお導きをさして頂こうということになるだろう。そして見るところ大祓式は、これはたいへん性格の変わったお導きの御大祭といったような事になるのではなかろうか、と言う結論でございましたですね。
 確かに例えば今日の、お払いを受けられた方達がです、信心の無い人達でも本気でお願いをして頂いておったら、こういうおかげを頂いたということになればです、それは次から次へとまた、話が話に継がれて行くだろうと。そして、信心は今頂いておるものが、んならはらえつものをその皆さんにお配りするようなその、お導きをさして頂けれるチャンスがまとめて、例えば今日でも新しい方達が六、七十枚来ております。
 はらえつものが。全然、今まで神様のかの字も見た事も無いと言ったような人達が六、七十人じゃなくて、六、七十家族来とります。そこから思うてみても、有り難いお祭りだなということが分かります。そのように例えば、今日の大祓に合わして頂いたということが、例えば前半に申しましたような有り難さと。有り難いということと同時に、それをそれだけに止めずに、いよいよ信心の稽古をさして頂く者はです。ね。自動車を持っておっても向こうからここまで歩いてでも行こうか、と言うような修行がです。
 いよいよ自動車の有り難さというものが分かるその有り難さをもってです、その自動車を使わせて頂くようになったら、もう絶対おかげが頂けれるだろう。と言ういわゆるここの、いわゆる本命であるところの信心を語らせて頂いた。そして最後にただ今申しますように、大祓式と同時にです、この大祓式はです、お導きのお祭りだと言うても過言ではないと言うような性格になってくるだろう。
 今日はそういうお祭りがですね、昼、奉仕されたのでございます。今晩、今日はお祭りに合われなかった方達、今晩お祭りの後にまた、あのお払いをさして頂きます。どうぞはらえつものやらを持って見えておる方は、また出して頂く。またそれをお払い、これはもう、例えば新車を買うたからお願いしますと言うだけじゃ、私は絶対にお払いをいたしません。これはもう今日の大祓の日だけ。
 これだけ私神様に、お願いさして頂いております。だからこそ神様から特別なです、ね、御神米のお下がりを頂いております。これは今日の、いわゆる交通安全大祈願の事に、対するところの御神米。それが今日、頂いておりま、す百三十枚だったかね。ん?、百五十枚、百五十枚それに、私が持つとったのがここに4・5枚ありましたから。
 それを全部、ここに今、三枚残っとるのを今一枚あげましたから、二枚残っております。特別御祈念のその御神米が。そういうようにいわば、かったらっとした事でした。ですからやはり、不行き届きと思うておるけれどもです。例えばその、周りを、来なかった。責任をもって配る人達が配っていなかったと言うような事でも、やはり神ながらな働きの中に入っておったと言うような事も分かりますですね。
   どうぞ。